深い淵からの祈り(詩篇130篇1節~4節)
0 はじめに
「深い淵」という言葉と詩篇69篇2節「深い泥沼」は同じ言葉です。泥沼に沈み,立ち直るためのその足がかりが見つからない苦悩の状態が「深い淵」です。人は,それぞれに「深い淵」を経験します。そのようなとき,私たちは神さまにどう祈ればよいのしょうか。
1 「主よ」と一言声に出して祈る
1つ目は,「主よ」とまず声に出して祈ることです。詩篇の記者は「深い淵」から神さまに呼び求めました。ところが,問題が大きくて,深く悩み,神さまに祈る力もないというのが私たちの現実です。そのようなとき,心に留めたいことは,「私たちが神さまを求める前に,神さまは私を呼び求めてくださっている」ということです。ですから,つらくてつらくてどうしようもないとき,詩篇130篇1節の最初の一言,「主よ」と,まず一言,神さまに向かって祈ることです。私たちが「主よ」と祈るとき,神さまがその後の祈りを導いてくださいます。神さまの働きがその人にはじまります。
2 自分の思いをすべて祈りきる
2つ目は,自分の思いをすべて祈り切るということです。私たちがクリスチャンとして歩んでいくと,いろいろな問題に直面します。そのとき,詩篇の記者のように,「主よ私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。」(2節)と祈り,2節に続けて自分の思いをすべて祈り切ることは,とても大切です。「主よ,私は今,こうなのです。」「主よ,私はどうしてもこう思うのです。」主なる神さまに,自分の思いをすべて祈り切ります。私の願いの声に耳を傾けてくださる神さまは,私たちの祈りを導いてくださいます。
3 罪からの救いを祈る
3つ目は,罪からの救いを祈るということです。クリスチャンとして歩みを重ねていく中で,私にとって「深い淵」は,「私の罪」であることが分かってきます。すると,「ですから。【主】よあなたがもし不義に目を留められるなら主よだれが御前に立てる
でしょう。」(3節)の重みがよく分かります。
パウロは,自分の不義,自分の罪にとことん悩みました。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(24節) パウロは,自分の罪という深い淵から神さまを呼び求めました。そして,「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(25節)と祈ります。罪による「深い淵」の苦しみが救われた感謝に変えられたのです
4節は,(イエスさまの十字架によって)「あなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます。」と「イエスさまの十字架によって」を付け加えて読むことができます。イエスさまの十字架によって,私たちは,罪というどうしようもない「深い淵」から救われ,立ち上がることができるのです。
(2021年10月24日 石原 俊一 兄)