使徒信条講解6 ひとり子の神(ヨハネの福音書1章14節〜18節)
0 ヨハネが描くイエス・キリスト
今日は、使徒信条の第二フレーズ、」「我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。」から、「独り子の神」がテーマでお話です。使徒信条の「その独り子」という言葉は、キリスト教の本質に関わるとても重要な言葉です。これが真実でないならば、福音は存在しないと言っても過言ではありません。聖書は、至る所で、イエス・キリストが神の独り子、すなわち、神の唯一の御子として証言している。今日は、ヨハネの福音書を開いていますから、ヨハネがイエス様をどのように証言したかをまず、見てみましょう。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)」「いまだかつて神を見たものはいない。父の懐におられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。(1:18)」「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは神子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(3:16)」 イエス様は、天地を創造し、神とともにあり、神であったとヨハネは、その福音書の初めに書きました。私たちがイメージする父と子とは、ずいぶん違う、イエス様のお姿がここには啓示されているのです。
2 独り子の神 イエスキリスト
ここには、大変、聴き慣れない言葉が記されています。「独り子の神」英語では、’only begotten Son’ と記されています。神が創造した被造物は、神とは異質の存在です。しかし、神が生んだ独り子は、神ご自身と全く同質です。この神と、その独り子との関係を、どのように説明するかということが、初代教会時代から、しばらくの間、大きな問題でした。使徒信条は、その天地創造の全能の神と、イエス・キリストとの関係を「我はそのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず」と表現しました。グノーシス主義に影響された人々は、「イエスは、神による最初の被造物である」と主張しました。現在も、イエス・キリストは、神の子であって、神による最初の被造物であると主張する異端があります。それに対して、使徒信条が語ることは、ヨハネの信仰告白と一致しています。
(1) そのひとり子
ルカ3:22「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と記されていますが、イエス様だけが、父の愛するひとり子でした。それは、預言者や偉人たちとは、比較にならない、父なるかみのたったひとりの「子」でした。ペテロが、イエス様を「あなたはキリストです。(マルコ8:29)」と告白した直後、イエス様は、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れ、高い山に登り、変貌したご自分のお姿を見せました。そこには、モーセとエリヤとが現れ、イエス様と語り合っていました。弟子たちは、恐怖に打たれ、「幕屋を三つ造りましょう」と語りましたが、たちまち、雲に覆われ、モーセも、エリヤも姿を消し、神の声が響きました。「これはわたしの愛する子。彼のいうことを聞け(マルコ9:7)」モーセも、エリヤも、旧約聖書の大人物、預言者です。しかし、イエス様は、彼らと比較することもできないお方、「わたしの愛する子」であると、父ご自身がお語りになる特別な方なのです。
(2) 恵みとまことに満ちた方
イエス様が、恵みとまことに満ちており、私たちが恵みに恵みを受けたとは、どういうことなのでしょうか。イエス・キリスト様は、私たちの間に住まわれたとヨハネは、語ります。こんなお話をしたらわかっていただけるのではないでしょうか。ある人が、癌になりました。入院しているときに、いろいろな方が見舞いに来られました。第一の方は、「いやあ、君のように元気な人はいないと思っていたのに、君が癌になるなんてびっくりしたよ。」と言いました。なんとも言えない疎外感、寂しさを感じました。第二の人は、癌のことをいろいろ調べて、たくさんの情報を持ってきてくれ、「どんな治療を受けるにしても、抗がん剤治療は、気を付けろよ。薬で、体がボロボロになってしまうから」と話してくれました。彼が帰った後、頭が混乱して、とても不安になったと言います。第三の友は、「どうして癌んなんかになったんだい?」と病室に入ってくるなり聞きました。病室にいる間中質問責めで、最後に、「まあ、これも何かの教訓だよ。」と言い残して帰っていきました。なぜか、とても責められているような気持ちになりました。第四の友人は、「君は、信仰を持っているんだろう。きっと神様が癒してくださるよ。」と言って帰っていきましたが、ああ、俺の信仰は何て情けない、不十分な信仰なんだろうと落ち込みました。第五の友人は、「聖書には、全てのことが働いて益となると書いてあるから、大丈夫だよ。」と語ってくれました。でも、なぜか、その言い方が人ごとのようで、とても腹が立った。第六の友人は、結局、一度も見舞いに来ませんでした。見捨てられたようで、とても寂しく感じました。第七の友人は、病室に入ってくると、手を握って、「大丈夫か、僕はいつでも、君のそばにいる。できることはなんでもするから、遠慮しないで言ってくれ。君の助けになりたい。」と言ってくれました。なんだか、心が暖かくなり、愛されていると思ったと言います。イエス様は、私たちを責めたり、批判したり、脅したり、延々と情報を語って、これも何かの教訓だと言い残してさっていくようなお方ではありません。私たちの間にすみ、私たちの罪の身代わりに、ご自分の命を差し出してくださるお方なのです。
(3) 神のことばを完全な形でお示しになる方
この終わりのとき,イエス様によって語られた言葉はこれまでの預言者のことばとは比べものになりません。
御子は神の栄光の輝き,また,神の本質の完全な現れであり,その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ,いと高き所で大いなる方の右に疲れました。(ヘブル1章3節)
神はその御子によって,ことばを完全な形でお示しになったのです。