王の到来(マタイの福音書2章1-13節) 

1 ヘロデの動揺と暴力性

聖書はイエス様の誕生に対する人々のリアクションの多くが「動揺」であったと記しています。ひとりはヘロデ王です(3節)。自分自身を「王」としその地位に固執してきた彼は、イエス様を殺そうとその地域の子どもの大量虐殺を図るなど、自らを守るために激しい暴力性を見せます(13節)。この姿は決して他人事ではありません。私たちも自分を「王」として自己中心になったり、自分を否定する言葉に過剰に反応して激しい暴力性を周囲に向けたりすることがあります。自分が損なわれることを恐れ、思い通りに生きられない人生に苛立ち不安になります。

2 エルサレム中の人々の動揺と暴力性

ヘロデ王だけではなく、エルサレム中の人も王と同様であったと聖書は記します。本来イエス様の誕生を喜ぶべきユダヤ人が、神様の介入よりも目の前の現実を恐れたのです。別の「王」を恐れる彼らは、波風を立ててほしくなかったのです。簡単に周囲に流されていく彼らの姿は、約30年後の出来事を暗示しています。彼らはエルサレムに入場するイエス様を大喝采で迎えながら、直後に指導者に扇動されて「十字架につけろ」と叫び、その暴力に加担していくのです。しかし、この姿もまた私たちと重なります。他人の目を気にして比較に生き、神様よりも目の前の現実を恐れ、振り回されてきた人生。簡単に神様を拒絶し傷つけてきた人生です。

3 その罪からお救いになる王の到来

しかし、イエス様はそんな私たちをその罪からお救いになるために、まことの王としてこの地上に来られました(1章21節)。私たちは、自分自身を「王」とする人生を悔い改め、あるいは他の誰か(何か)を「王」のように恐れてきた人生を悔い改め、このイエス様を王とする人生へと招かれています。このお方は私たちの罪を赦すために、幼子として地上に来られ、十字架にかかって死んでくださいました。博士たちはそんなイエス様を王として礼拝しました。異邦人である彼らが最初の礼拝者であった事実は、誰もがこの救いに招かれていることを示しています。彼らが最高の贈り物をささげたように、私たちもこの王を私たちの王として、精一杯の礼拝をささげる生涯を共にあゆみましょう。

(2021年12月26日 永井創世 師)

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