愛の戒め(ヨハネの福音書5章41節~47節)

1 モーセの意図が理解できなかったパリサイ人・律法学者

パリサイ人や律法学者は,聖書をよく勉強している人達でした。ところが,パリサイ人や律法学者は大きな問題が2つありました。
その一つは,律法学者やパリサイ人は,1 モーセの意図が理解できなかったパリサイ人・律法学者
パリサイ人や律法学者は,聖書をよく勉強している人達でした。ところが,パリサイ人や律法学者は大きな問題が2つありました。
その一つは,律法学者やパリサイ人は,出エジプト20章20節を見落としたことです。モーセは,「律法は,神への恐れがあなたがたに生じるため」と語っています。律法と向き合うことは神さまと向き合うことです。律法と向き合い,神さまと向き合うとき,人々の心に起こってくるのは,「神への恐れ」です。神さまの前にへりくだり,ひれ伏し,神さまの憐れみを願うしかないのです。モーセは,そのことを分かっていました。そして,モーセは,律法を前にして,滅びるしかない私たちのために,やがて,イエス・キリストがおいでになることを聖書に書いていました。律法学者やパリサイ人は,そのイエスさまを信じるどころか,イエスさまが神を冒涜していると立腹してしまいました。モーセが書こうとしたことが理解できなかったのです。

2 人からの栄誉を求めた律法学者・パリサイ人

神さまが望んでいるのは,神さまと人が愛で結ばれることです。イエスさまの十字架もそのためです。しかし,律法学者・パリサイ人には,神さまと愛で結ばれるということが全く分かりませんでした。しかし,彼らが守ったと思っていたのは自分たちの出来る範囲に引き下げてしまった律法です。そして,その心の奥には誇りがありました。同じ,律法学者・パリサイ人同士で律法を守っていることの栄誉をたたえ合います。そして,律法を守っていない人々を見下します。
大切なことは,イエスさまをとおした神さまとの愛の関係です。こんな私が愛されています。許されています。そのことを心から信じることが出来れば,イエスさまのように人からの栄誉を受ける必要はありません。そして,私たちが自分の過ちに気づき神さまの方に向きを変えるとき,神さまは一切を赦し,私たちを祝福してくださいます。しかし,律法学者・パリサイ人は,人からの栄誉を求めてしまっていたのです。

3律法学者・パリサイ人の問題を指摘したイエスさま

イエスさまは本質的な指摘をしました。しかし,現代を生きる私たちからすると,あまりにも鋭すぎる指摘のようにも思えます。しかし,思い巡らして見る中で,私はちがった見方をするようになりました。
律法学者やパリサイ人のように,一見立派に生きている人は,自分も周りも立派にしか見えません。だから,しっかりと指摘されないと,自分の問題に気づくことができません。自分は正しい,自分はこれでよいと思っているからです。もし,自分の問題に気づかなければ悲劇です。自分としては,一生懸命やっているつもりなのに,自分の過ちに気づかないままでいると,やがて神さまのさばきを受けるしかなくなります。おそらく,律法学者やパリサイ人はここで,イエスさまに指摘されなければ,一生自分の誤りに気づく機会はなかった思います。イエスさまは,律法学者やパリサイ人にチャンスを与えたのです。自分の問題の本質に気づき悔い改めるチャンスです。ですから, 律法学者やパリサイ人は,イエスさまが与えたチャンスを生かすことは出来ませんでした。しかし,私たちは,チャンスを生かした者になりたいと思います。自分の過ちに気づかされたときは,
「おっしゃるとおりです。私は神様を信じます」と祈りたいと心から思います。それは,イエスさまの心からの願いです。

(2022年1月30日 石原俊一 兄)

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