使徒信条講解⑨キリストの十字架(ローマ人への手紙6章1~11節)
1 はじめに
使徒信条を学び始め、今日は、九回目です。イエス様の十字架についてお話をしましょう。小さいころの記憶をたどりますと、教会学校で、聖画を見せてもらいながらお話を聞いたことを懐かしく思い出します。しかし、イエス様の十字架の場面だけは、とても怖かった記憶があります。キリスト教会で、救い主とあがめるイエス・キリスト様は、どんなクリスチャンの死よりも悲惨な死を遂げました。どうして、十字架で死ななければならなかったのでしょうか。その十字架には、どんな意味があるのでしょうか。今日は、そんなことを、聖書の中からお話したいと思います。
2 自ら負われた十字架
十字架と言う処刑の方法は、ローマ人が考え出した世界で最も残酷な処刑方法だと言われています。昔の日本人は、首を切ってさらし者にするという処刑方法を用いました。これも残酷ですが、十字架は、生きたまま、十字架の上に磔にし、苦しみもがきながら死ぬ姿をさらし者にするというとても残酷な処刑方法でした。イエス様は、ゲッセマネの園で捕らえられ、群衆や、兵士たちにされるまま、全く無力なお姿で、十字架にお架かりになりました。しかし、されるままに十字架につけられたのではないのです。実は、イエス様は、お弟子たちに、度々、自分が十字架につけられ死ななければならないと予告しておられました。
① 予告された十字架
マタイの福音書では四回(マタイ16:21、17:22、20:18、26:2)、マルコの福音書では三回(マルコ8:31、9:31、10:33,34)、ルカの福音書では六回(ルカ9:22,44、13:32,33、17:25、18:31~33、22:37)という具合です。
② 自発的な十字架
さらに、イエス様は、自発的に十字架に向かわれました。ペテロは、自発的に十字架に向かわれたイエス様の姿を、「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しくさばく方にお任せになった。キリストは自ら、十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。(Ⅰペテロ2:22~24」と手紙に書きました。また、ヨハネも、「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。(ヨハネ10:18)」とイエス様の言葉を書き記します。
3 十字架の意味
では、イエス様が十字架の上で苦しみ、死なれるということには、どんな意味があるのでしょうか。
① 神に呪われた者となる(ガラテヤ3:13)
十字架には、神の怒りが明らかにされています。
② 罪を贖うため(ローマ8:1~3)。
私たちのどす黒い罪を、贖うための死でした。十字架は、私たちの恐ろしい罪の姿を暴きます。
③ 古い人の死(ローマ6:1~5)
十字架は、私たちの罪が赦されるだけでなく、その後の歩みにおいて、神によってきよめられ、神にとって有益な者として歩むことができるよう、私たちに成長をもたらす力でもあります。
(2022年2月20日 木田惠嗣 師)