心に住んでくださるキリスト(エペソ人への手紙3章17~19節)
1 キリストが私たちの内に住んでくださる
パウロは、エペソの教会の信者の心の内にキリストが住むことを祈ります。ここで、パウロが祈っているのは、キリストが心の内に永久に住んでくださるようにという祈りです。キリストは祈りに答えて私たち一人ひとりの内に住んでくださいます。
2 愛に根差し、愛を土台とし
キリストを信じる者にも、私に根差し、私を土台としようとする命が残っています。私の思いや考えに従って行動し失敗することがあります。だから、キリストを信じる者は、私の内にすんでくださる「キリストの愛に根ざし、キリスト愛に基礎を置くこと」を願います。私のうちに住んでくださるキリストを主として私の内にすんでくださるキリストに導かれることを願います。 ここでいう「愛」とはなんでしょう。ヨハネは愛についてこう説明します。「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。(Ⅰヨハネ3:16)」イエスさまが私の罪のために、十字架にかかって死んでくださったことが愛であるというのです。神の子であるキリストが命を捨てて下さるほど、私たち、一人ひとりが尊い存在、大切な存在だと見てくださることが愛です。ですから、「キリストの愛に根差し」というのは、「自分がどんなに罪人でも、イエスさまは私を愛し、神さまに執り成してくださるということをもとに思い、考え、行動する。」ということです。「キリストの愛に立つ」とは、「どんなに罪深い者でも、愛し、神さまに執り成すという場所から離れない。」ということです。私たちは私の中に住んでくださるキリストを主としてキリストの導きを求めることで、しだいに私の中にするんでくださるキリストに根差し、土台とするように変えられて行きます。
3 神の言葉の真実
キリストの愛の「広さ」とは、キリストの愛の包容力です。私たちは、こんな私ではダメだとよく思います。しかし、キリストの愛の包容力、広さは私たちの理解を超えています。だから大丈夫です。いくら自分のだめさが明らかになってもイエスさまは愛してくださっていることを覚えたいと思います。「長さ」とは、キリストの愛の忍耐力です。私たちは、自分や人の問題を見ていると我慢できません。もうダメだと思ってしまいます。しかし、キリストの愛は私たちの理解を超えた忍耐力です。「高さ」とは「キリストの崇高さ」です。私たちは自分の小さな物差しで神さまを計ります。しかし、神さまの思いはわたしたちの思いより高いのです。そして、その崇高さは、へりくだりに表れます。キリストが一番低いとことに下りてくださったこともまたキリストの崇高さの表れです。「深さ」とは、「キリストの愛の深い理解力」です。キリストは、私たち一人ひとりを深く理解してくださっています。イエスさまは、私の悩みを深く理解してくださいます。それだけではありません。私の美しさ、すばらしさ、大切さも深く理解してくださっています。誰も自分の気持ちを分かってくれないと思うときがあります。しかし、自分にとって一番身近な、私の中に住んで居られるキリストが一番の私の理解者なのです。
4 人知をはるかに超えたキリストを理解する。
さらに、パウロは、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」と祈ります。私たちは、キリストの愛を自分の頭の範囲でしか理解出来ません。しかし、あるとき、神さまの愛は、自分の頭をはるかに超えているという事実に直面し、自分の中の神さま理解が深まります。私たちの歩みは、このように人知をはるかに超えたキリストとの出会いの連続なのです。そのようにして、私たちは、19節の後半にあるように、神の満ちあふれる豊かさにまで、満たされます。パウロはそのことが一人ひとりのものになるように祈ってくださっているのです。キリストを信じている私の中に住んでくださるキリストはなんとすばらしいことでしょう。
(2024年12月15日 石原 俊一 師)