見よ,あなた方の神を(イザヤ書40章6節~11節)    

1 何と叫びましょうか

現実に起こっている「戦争」を前に、ふさわしい言葉がなかなかみつかりません。イザヤの時代も同じでした。イザヤ書40章は、バビロン捕囚下の神の民に向けた預言です。イザヤが直視していた現実は、さばきの結果として国が滅亡し、祖国を終われた神の民の悲惨な現実でした。そんな中、「慰めよ、慰めよ、わたしの民を」(1節)と回復の希望を語り始め、イザヤは「荒野で叫ぶ者の声」(3節)によって「叫べ」(6節)と、慰めを語るように促されます。しかし、イザヤはそれに対して「何と叫びましょうか」と問います。現実とのギャップからみことばに心が追いつかず、慰めは虚しく響いたからです。これは、私たちもまた人生の中で繰り返し出会っていく問いです。世界に目を向けても、あるいは身近な日常生活においても、生々しく重い現実を前に私たちは言葉を失うことがあります。目の前の出来事に対し、みことばがまったく通用しないと感じることがあります。

2 私たちの神のことばは永遠に立つ

しかし、イザヤに対して「荒野で叫ぶものの声」は、「神のことばは永遠に立つ」(6節)という大切な真理を指し示します。同時に、そこでは「人」や「その栄え」のはかなさが語られています。まるで永遠に続くように見える敵国の繁栄も、またそのような目の前の現実に目が奪われていたイザヤ自身も、神のことばの永遠性に比べれば、あまりにもはかないものでした。ここに、イザヤの問いへの具体的な「答え」はありません。しかし、「永遠」の視座に立つ神が語られることばへの信仰こそが、葛藤の只中にあるイザヤに求められた応答でした。私たちもまた、この神のみことばを信じる信仰に、地を踏みしめるようにして今日も共に立ちたいと思うのです。

3 見よ。あなたがたの神を

預言者イザヤはみことばに立ち、交わりに向かって声をあげます。そして、交わりの中で「見よ、あなたがたの神を」(9節)と、互いに励まし合って神を見上げる交わりであるようにと促すのです。10-11節には、そのように目線を上に向けた時、私たちが仰ぐ2つの「御腕」が描かれています。1つは、この世界を支配する力強い御腕です(10節)。そしてもうひとつは、子羊を懐に抱く羊飼いのように、私たちを養い導く御腕です(11節)。私たちの目線は嵐のような日常の中でついつい下に下がります。しかし、「見よ。あなたがたの神を」との招きに応答し、天に目を向け、永遠に立つみことばが語る主の御腕による支配と養いの現実の中を、今週も共に歩んでまいりましょう。

(2022年2月27日 永井 創世 師)

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