イエスさまの「時」(ヨハネの福音書7章1節~13節)
1 「時」を心に留めた歩み
エルサレムが仮庵の祭で賑わっている頃,イエスの兄弟たちは,「ガリラヤのような田舎に留まっていないで,その力を多くの人々に見せなさい。」と助言します。イエスの兄弟たちは,イエスさまを励まそうを思ってこのような言葉をかけたのかもしれません。しかし,聖書は,「兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」と言い切ります。イエスさまの兄弟の何が問題だったのでしょう。イエスさまは,「わたしの時はまだ来ていません。」(6節)と答えます。イエスさまの兄弟たちのアドバイスは,一見正しいように見えますが,神さまの時を全く無視した言葉でした。イエスさまは父なる神とともに生き,神の時を歩んできました。その神さまの時に対する信仰がイエスさまの兄弟たちにはありませんでした。
神さまがなさることには時があるのです。その時を待つことは信仰です。クリスチャンとしての歩んでいくと,何が正しいか,正しくないかということだけでなく,今は,神さまの時なのだろうかと考えるようになります。神さまの時ならそれは最善だし,それが神さまの時でなけれどんなに正しいと思ってもそれをやることは信仰ではないのです。
2 「イエスさまの時」とは十字架の時
6章では,まだイエスさまの時は来ていませんが,17章では「イエスさまの時」が来ます。「イエスは目を天に向けて言われた。『父よ、時が来ました。』」 (17章1節)それは,十字架の時です。イエスさまがエルサレムに入場し,大勢の人々の前にご自分の姿を現すその時は,たくさんの人々がイエスさまを信じ,イエスさまを称賛する時ではありません。イエスさまが十字架につけられる,イエスさまが殺されるその時でした。イエスさまは,世の罪をはっきりと示されたために,世に憎まれました。その結果,人々は,イエスさまを十字架につけました。「イエスさまの時」は,そのようにイエスさまが十字架の上で殺されるそのときでした。しかし,同時に「イエスさまの時」である,イエスさまの十字架は,私たちの罪の贖いのときでした。私たちが,どんなに罪人であり,イエスさまを憎み,神さまに反逆するものであっても,「イエスさまの時」にイエスさまは十字架の上で私たちの全ての罪の罰を受けてくださいました。イエスさまは私たちの裁きの身代わりとなってくださいました。
イエスさまは,その生涯をとおして,「わたしの時」十字架を見つめ,十字架に架かるために生涯を歩まれたのです。私たちもイエスさまがひたすら見つめた「イエスさまの時」,イエスさまの十字架を見つめて歩んでいきたいと思います。
3 「イエスさまの時」に歩む自由
イエスさまは,イエスさまの兄弟のアドバイスを斥けました。しかし,その後,イエスさまは内密にエルサレムに行かれます。そのため,結局,イエスさまは兄弟のいうことを受け入れたのかなと思う人がいてもおかしくないと思います。しかし,これこそ,イエスさまなのです。イエスさまは,父なる神と一つの存在です。イエスさまと父なる神は愛の関係で結ばれています。その父なる神の御心であるなら,「今回は内密にエルサレムに行け」と御命じになれば,御命じのとおりに行きます。神さまは,今日は右に行けと言えばイエスさまは右に行きます。次の日神さまが左に行けと言えば,イエスさまは左に行きます。イエスさまは神さまとの愛の関係の中で,神さまの導きは一番適切で一番正しいということを行動で現しているのです。
現代,私たちには聖霊が与えられています。聖書は「御霊に導かれて歩みなさい」と御命じになります。一瞬一瞬,今どのような時か,神さまの御心は何かを神さまにお聴きしながら,聖霊に導かれながら歩むことができます。すると,「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3章11節)という御言葉が心からアーメンといえるようになります。それは,本当に幸いな歩みです。
(2022年5月15日 石原 俊一 兄)