神さまの栄誉を求める人(ヨハネの福音書7章14節~24節)
1 イエスさまの教えは神さまの教え
ユダヤ人の民は,正式な学校で学んでいないイエスの教えは自分勝手な教えと判断し,軽蔑しました。イエスさまは,イエスさまの教えは,私を使わされた方,すなわち神さまのものだとお答えになりました。神さまは,全世界をお造りになり,今まも御支配されています。イエスさまの教えは,イエスさまのことばではなく,神さまの完全何教え100%というのです。イエスさまと父なる神さまはそれぞれに人格をもっています。イエスさまと父なる神さまは愛の関係で結ばれています。そのイエスさまは,ただ神が語れといったことを語ります。神が行いなさいといわれたことを行います。すべては神次第です。自分からは何も出来ません。イエスさま自らにあっては全くの無能です。イエスさまは,ただ,神さまによって動かされ,神さまによって語らされる方なのです。
「ユダヤ人が思っているように学校で教わるかどうかが真実な教えの基準ではありません。混じりけのない神さまの教えをストレートに語ることができるかが真実な教えかどうかの大切な基準なのです。
2 真実の教えか偽の教えかを見分ける信仰
イエスさまは,ユダヤ人に,「神さまの御心を行おうとする人は,その教えが神からでた真実の教えから,自分から語る偽の教えかを見分けることが出来ますよ。それができないあなた方には問題があるのではないですか。」と問います。「神のみこころを行う人」というのは,神さまを信じる人です。信仰のある人は,イエスさまの教えが神から出た真実の教えであることが分かります。自分から語っている偽の教えもよく分かります。しかし,神さまを真実に信じていない人は,その区別がつきません。真実の教えか,偽の教えかを見分けることのできない人は真実に信じていないということです。
イエスさまは,さらに,信仰のある者が教えの真偽を見分けるポイントを示してくださいました。一言でいうと,自分の栄誉を求めているか,神さまの栄誉求めているかという違いです。神さまの栄誉を求めている人は真実で不正がありません。しかし,自分の栄誉を求めている人は偽の教えを語っている人,神の教えではなく自分の考えを語っている人ということです。
イエスさまは,自分の栄誉を求めません。栄誉を求めるどころか,恥辱を味わわれました。イエスさまは,ただ,神さまの御心にしたがって,十字架に架かって私たちの罪のために死んでくださいました。ひたすら,父なる神さまの栄光を求めて歩まれました。まさに,イエスさまは真実で不正がないお方だったのです。
3 「神さまの栄誉を求める人」にしていただける私たち
私たちは,自分の栄誉を求めるというどうしようもない罪人です。しかし,イエスさまのこの御言葉で,聖霊の働きでそのことに気づく人は幸いです。私たちは,自分の罪を深く知られます。しかし,悔い改め,イエスさまのとりなしと,子としていただけることへの感謝と喜びをもつころができます。「イエスさま,,また自分を誇りにしました」と祈り,神さまのもと何度も何度も戻ります。そのような歩みの繰り返しの中で,私たちはイエスさまと同じ姿になるように導かれます。イエスさまのように空っぽの者になっていきます。 イエスさまのようにただ神が語れといったことを語ります。神が行いなさいといわれたことを行います。すべては神次第です。自分からは何も出来ません,自らにあっては全くの無能です。ただ,神さまによって導かれ,神さまによって語らされるものに変えられます。
そして,私たちは, 自分を遣わされた方の栄誉を求める人になります。。イエスさまが, その人には不正がありません。と言われる人にしてくださるのです。
(2022年5月29日 石原 俊一)