焼いた魚一切れ(ルカの福音書36~43節)

1 最初のイースター

日曜日の夕方のお話です。エマオからエルサレムに取って返した二人の弟子が、十一人とその仲間が集まっているところに行ってみますと、「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された。(34)」と話しているところでした。そこで、二人は、その会話の輪に加わり、「実は、私たちも・・」と話し始めるのです。ここに集まった弟子たちは、①十一人。本当は十人ですが(Cf.ヨハネ20:24)、「使徒」たちという意味です。②その仲間。多分、マグダラのマリアとか、墓が空であることを報告した女たちもいたと思われます。③エマオから帰って来た二人の弟子、クレオパとその妻マリアがいました。

2 信じられない弟子たち

そんな、弟子たちの会話の中心に、イエス様が突然現れ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。弟子たちは、幽霊を見ていると、「おびえて震え上が」りました。復活の主を目撃した弟子たちがいたはずですが、みな、おびえ、取り乱し、大騒ぎになったのです。そこで、イエス様は、「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。」「わたしの手や私の足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。」とご自分の手足を見せられるのです。弟子たちにとって、イエス様の復活というものは、それほど信じがたい出来事でした。

3 焼いた魚一切れ

イエス様は、そんな大騒ぎの弟子たちに、ご自分が確かに復活されたということを証明するために、①復活のお姿を弟子たちの真ん中に現わされました。②ご自分の手や足を見せられました。③手や足を触らせて、「まちがいなく、わたしだ」と弟子たちの歩かれるイエス様のお姿が見えるようです。④イエス様の最後の手段は、弟子たちが差し出した焼いた魚を一切れ、むしゃむしゃと食べて見せることでした。この聖書の箇所は、椎名麟三が回心に至った聖書の箇所として有名です。絶望の中で、「仕方がない、そのまま素直にこの個所を読んでやろう」と読み始めたこの聖書の箇所で、信じない弟子たちに、一生懸命、毛脛を出し、焼き魚をほうばるイエス様の姿に、ドキンとし、足元がグラグラしたと書いています。

4 復活はなぜ大切か

実に、イエス様は、よみがえられました。なぜ主イエス様の復活は、私たちにとって大切なのでしょう。①最も大切なことだからです(Ⅰコリント15:3~5)。②私たちの罪の赦しの土台だからです(ローマ4:25)。③復活の希望を与えてくれるからです(Ⅰコリント15:20~23)。

(2022年6月12日 木田 惠嗣 師)

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