イエスさまと同じ舟に乗る(マタイの福音書8章23~27節)

1 時を見定める信仰

イエスと弟子たちの舟が嵐に見舞われ、沈没寸前となる中、イエスは眠っておられました。これは、イエスが神に一切を委ね、平安そのものであったことを示します。イエスは、まだ十字架にかかる「そのとき」ではないことを知っており、この嵐は神の国(イエスの支配)を広げ、弟子たちの信仰を教えるための出来事であると時を見分けていたからです。

一方、弟子たちは慌てふためき、「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と、切迫感をもってイエスを起こしました。彼らは「時を見分ける」ことができず、自分たちの命の危険にのみ囚われました。

私たちも時を見定める信仰が大切です。目の前の現実だけに目を奪われるのではなく、ここにどのような神さまのご計画があるのかを観るのです。今は、イエスの十字架によって世界が回復しつつある時であると同時に、この世の終わりに備えつつ、イエスの再臨を待ち望む時でもあります。時を見定める信仰は、聖書を読み、祈る中で与えられます。

2 「臆病」を乗り越える信仰

イエスは弟子たちに「どうして怖がるのか」と尋ねましたが、原語を参照するとし、「なんでそんなに臆病なのか」というニュアンスが強いことが分かります。「怖がる」は危険に対する自然な感情であり、適切な対処につながります。しかし、「臆病」は、恐れに縛られて行動すべき時に行動できない状態、すなわち恐れに支配され、神への信頼を失っている不信仰な状態を指します。

イエスは、恐れによって神への信頼を失い、身動きが取れなくなっている弟子たちの「臆病」を指摘し、「臆病を乗り越える信仰」を求めておられます。問題に直面したとき、私たちは恐れに支配されるのではなく、イエスに問題を申し上げ、指示を仰ぎ、今できることを一つ一つ行い、時にはあえて動かず神の時を待つという信仰の歩みが大切です。臆病を乗り越える信仰とは、「神はこの困難を必ず乗り越えさせてくださる」と信じることです。

3 「信仰がうすい」ことを認めさせられる歩み

イエスは臆病な弟子たちを「信仰の薄い者たち」と言われました。「薄い」とは、氷が割れて人が落ちてしまうほど何の役にも立たない薄さのことです。弟子たちの歩みは、立派な信仰者になったことではなく、むしろ自分たちの信仰がいかに薄いか、何の役にも立たないかを明らかにされていく歩みでした。

私たちも信仰の歩みの中で、自分の信仰の薄さを思い知らされます。しかし、がっかりする必要はありません。真の信仰の歩みとは、自分の「信仰の薄さ」を知らされ続ける歩みだからです。この「薄さ」を深く実感させられた人こそ、主に導かれてきた信仰者であると言えます。

4 イエスと同じ舟に乗る恵み

時を見定めることができず、臆病に支配され、「信仰の薄い者」である私たちですが、絶望することはありません。弟子たちは、嵐を静めたイエスの力に驚嘆し、「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか」とイエスを崇めました。

私たちも、自分の不信仰にがっかりすることがありますが、ダメにはなりません。なぜなら、イエスと同じ舟に乗っているからです。私たちが何にもできなくても、イエスは「風や湖までが言うことを聞く」全能の主であり、全世界を支配される方です。私たちの歩みは、自分の信仰の薄さを知らされる歩みであると同時に、イエスの権威にただ驚き、感動させられる歩みでもあります。イエスと同じ舟に乗り、共にいる恵みによって、不信仰への思いは吹き飛ばされ、イエスのお力に信頼して歩み続けることができます。

5 おわりに

イエスと共にあるとき、嵐は収まり、心は「凪」(平安)に導かれます。私たちはこの平安が後に来ることを信じ、今吹き荒れる嵐に向かって進むことができます。不信仰丸出しでも構いません。ただ、「いったいこの方、イエスさまはどういう方なのだろうか」という驚きと感動をもって歩み続けましょう。

(2025年11月30日 石原 俊一 師)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です