人に見せる信仰からの解放-断食を中心に-(マタイの福音書6章16~18節)

1 はじめに

主の祈りを学び終えた私たちは、再びマタイ6章の主題に立ち返ります。それは「人に見せるために善行をしないように」という警告です(6:1)。信仰生活において重要な三つの実践――施し、祈り、断食――について、イエスさまはすべて「人の目」ではなく「神の目」を意識するように教えておられます。

2 断食とは

断食とは、一定期間食を絶ち、神に集中する行為であり、祈り、悔い改め、神の臨在を求めるために行われました。旧約時代、ユダヤ人の間では断食は一般的な信仰行為で、特にパリサイ人は週に二度実践していました。イエスさまは断食そのものを否定せず、むしろ信仰によって行うべきこととして語ります。
しかし、宗教改革以降のプロテスタントでは、断食が形式主義と結びつくことを警戒し、あまり実践されなくなりました。カルヴァンは、断食を義務や救いの手段とすることを批判し、「神から心が離れる危険があるならば、行わない方がよい」と語ります。さらに、現代では健康面への配慮からも断食は避けられる傾向にあります。それでも断食の霊的価値は否定されません。真剣に神と向き合う中で、神の導きを求め、自己の本質を知る機会ともなります。ただし、健康への配慮と正しい動機が不可欠です。

3 真実な断食-ダビデの信仰

ダビデの断食にその模範を見ることができます。(Ⅱサムエル12章)彼は罪を犯した後、病の子どもが癒されるように断食をして神に祈りました。神の御心が変わるかもしれないと希望を抱きながらの祈りでしたが、子は死にます。ダビデはそれを神の御心として受け入れ、礼拝をして日常生活に戻りました。彼は、祈りが応えられなくても神を責めることなく、断食を通して神と向き合い、その御心を受け入れる姿勢を示しました。ダビデは神の憐れみを乞い、断食を通して祈り続けましたが、子どもは死にました。しかし彼はその死を神のみこころとして受け入れ、断食を終えて日常生活に戻ります。この姿に、断食を「手段」ではなく、神との真実な関係として受け止めていた信仰の姿が見えます。

4 断食の問題

イエスさまは、「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。」と語ります。イエスさまの批判は、断食を人に見せるパフォーマンスにしていた偽善的なユダヤ人たちに向けられました。彼らはわざと暗い顔をし、人前で断食を誇示していました。その目的は「人に見せること」であり、報いは「人からの称賛」だけです。イエスは、「断食をするなら、頭に油を塗り、顔を洗いなさい」と言われます。これらの行為は、当時の人々の身だしなみでうす。イエスさまはいつもと異なる格好で自分をアピールする必要はなく、断食中も普段どおりの格好でいいではないかと問うのです。大切なのは、神さまの御前に立つ真実です。神さまのまざざしを受けることです。

5 断食と人に見せる信仰

「隠れたところで見ておられる父が報いてくださる」という言葉は、施し、祈り、断食のすべてに繰り返される真理です。人間は本質的に「人の目」を気にする存在であり、信仰も知らず知らずのうちに「人に見せるもの」になってしまいます。SNSなど現代の自己表現の手段もこの傾向を助長しています。しかし、神は「隠れたところ」を見ておられます。神との関係が深まるとき、私たちは人に認められることに左右されにくくなり、他人の批判や悪意に過度に傷つかなくなります。もちろん、それでも私たちは完全には自由になれません。だからこそ、日々悔い改め、神の前に立ち返る必要があります。断食を通して見えるのは、信仰の真実です。信仰とは「神に向かうこと」であり、たとえ祈りが叶わずとも、神の御心を受け入れる姿勢にこそ本質があります。ダビデのように、神との関係において祈り、願い、悔い改め、そして委ねる。そこに、神の報いがあるのです。

6 おわりに

断食は、現代でも信仰の歩みに役立つ行為です。しかし、最も大切なのは、その手段を用いてどのように神に向き合うかです。イエスの十字架によって赦された私たちは、いつでも神の前に立ち、祈ることができます。私たちが人の目ではなく、神の前に生きる時、神はその真実を見て報いてくださいます。

(2025年7月13日 石原 俊一 師)

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