あなたの宝はどこにあるか(マタイ6:19–24)

1 はじめに

「宝」と訳されるギリシャ語「θησαυρός(セーサウロス)」は「価値あるもの」という意味を持ちます。人によって何を価値あるとするかは異なりますが、信仰生活を生き生きと歩むうえで、自分が何を宝とするのかは極めて重要です。

2 地上に宝を蓄えるな

イエスはまず「地上に宝を蓄えるな」と語ります。地上の宝とは、私たちがこの世で価値を置くもの──お金、知識、健康、容姿、地位、名誉などです。教会生活においても、奉仕や祈りが人に見られることを意識しているなら、それもまた「地上の宝」です。
精一杯働くことや自分の生活について、見通しを持つことは正しい事です。しかし、地上の宝はやがて朽ち、失われ、盗まれまれることを知っておく必要があります。そして、どれだけ地上の宝を得ても、自分のいのちを失ったときには何の訳にも立ちません。(ルカ12:15~21) 地上の宝の大きな問題はそれらに依存し、そこから安心を得ようとすることです。しかし、地上の宝に固執すると、永遠の宝であるキリストを見失ってしまいます。

3 天に宝を蓄える

一方、「天に宝を蓄える」とはどのようなことでしょうか。それは、「キリストを最も価値ある方として生きる」ことです。キリストこそ、神の国における永遠の宝です。(エペソ3:8)「キリストの測り知れない富」(エペソ3:8)があります。神の知恵と知識がすべてがあります。(コロサイ人2:3)
天には無限の価値をもつキリストがおられます。もうすでに、神の国に宝は満ちています。蓄える必要は全くありません。私たちは、この世の歩みの中でただ、無限でおられるキリストをいただいていくだけです。自分のものとして受け取るだけです。ですから、「蓄える」とは、自分で何かを積み上げることではありません。日々の生活の中でキリストを受け取ったというあなたの信仰の証が天に書き記され、宝として蓄えられていくということです。
具体的には、生活、仕事、教会、人間関係、問題解決のすべてにおいてキリストに委ね、導きを仰ぎながら歩むことです。そうする中で、私たちはキリストの導きと祝福を体験し、それを神に感謝として返すことで、さらにキリストを受け取る器となっていきます。「そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」この宝は、時の経過や盗人によって損なわれることがなく、永遠に確かなものです。

4 あなたの心はどこにあるか

イエスさまは、「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある(6:21)」と言われました。私たちはしばしば無意識に、この世に価値を置き、心を奪われがちです。ですから、イエスさまは問われます。「あなたの宝はどこにあるのか」と。あなたは何を大切にしていますか?何に価値を置いていますか?この世ですか?それともキリストですか?この問いかけによって、心がキリストから離れてこの世に向かっていることに気づかせようとしてくださっているのです。
主は、私たちの目が「健やか」(=純粋・単一)であることを求めます。つまり、心の目がただキリストに向けられているなら、私たちの人生は明るく照らされるのです。反対に、この世とキリストの両方に心を向けていると、やがて地上のものに心を奪われます。
「だれも二人の主人に仕えることはできません。(6:24)。」神さまに仕え、天の宝であるキリストを求めるか、地の宝に心を奪われ、富に仕えるか、私たちの歩みはどちらかです。両方はありません。イエスさまは、私たちにただひたすら、キリストを宝とし、神に仕える歩みを求めておられます。

5 おわりに

イエスさまは私たちに「ただひたすら、神に仕え、キリストを宝とする歩み」を求めておられます。「自分のために、天に宝を蓄えなさい」との御言葉に応答し、今週、小さな一歩でも地上の宝を手放し、キリストに心を向けてみませんか?
キリストを宝とするなら、どんな困難の中でも揺るがない平安と喜びを得ることができます。永遠の宝「キリスト」を握りしめて、主と共に今日から新たな一歩を踏み出しましょう。

(2025年7月20日 石原 俊一 師)

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