揺るぎない信頼 (マタイの福音書6章25~34節) 

1 はじめに

マタイ6章の後半は、人がこの世に巻き込まれるという問題を取り上げています。先週は「この世の宝」に心を奪われる問題を学びましたが、今回は「生活の心配」に焦点が当てられています。イエスは「何を食べようか、何を着ようか」と心配するのをやめなさいと命じます。それは、キリストを第一にする者には必要なものが与えられるという約束に基づいています。

2 「心配するな」とは

イエスさまが使う「心配する」という言葉(μεριμνάω)は、「心が分裂している状態」を意味し、今なすべきことに集中できない状態を表します。また、「心配するな」という命令は言語では「心配し続けるな」という意味があります。イエスさまは、一時的な不安ではなく、心配に心を支配され続ける状態を問題にされているのです。今、集中すべき思いと別の思いが心を捉え続ける状態です。イエスさまは、不安や心配が次々にやってきて心を支配し、今やるべきことに集中できない状態を続けるなと命令しておられるのです。

3 イエスさまの励まし

私たちは生活、仕事、人間関係、病気など多くのことで心を奪われ、神への信頼を見失いがちです。イエスはそんな私たちに、いくつかの励ましを語られます。
(1)あなたには価値がある
まず、「あなたには価値がある」というメッセージです。神は、いのちとからだという最も価値あるものをくださった方です。空の鳥でさえ養い、野の花でさえ美しく装ってくださる神が、私たちをなおさら顧みてくださらないはずがありません。神の創造の業を見れば、私たちはどれほど神にとって大切な存在であるかが分かります。
(2)全能の神は主権をもっておられる
次に、「神の全能と主権」について語られます。いのちを延ばすことすら私たちにはできず、それは神の主権に委ねられていることです。また、神は私たちの必要を私たち以上に知っておられます。明日のことは明日に任せ、今日の課題に集中するようにイエスは勧められました。神は必要以上の苦労を与えることはなく、日々にふさわしい助けを備えてくださいます。

4 信仰が薄いことを認める

それでも私たちは、「信仰の薄い者」として心配に心を支配されます。信仰の薄さは、池に張られた薄い氷のようなものです。薄ければ、歩き出したとたんに割れてしまいます。同じように、信仰が弱ければ問題に押しつぶされてしまいます。けれども、「信仰の薄い者よ」とイエスの声を聞くことは幸いです。大切なことは自らの不信仰を認めることです。「神さま私は信仰がありませんでした」と告白することです。そのとき、私たちは神に立ち返ることができます。神さまへの信頼が回復し、一切を神さまに委ねることができます。そして、今やるべきことに集中出来るようになるのです。
私が小学校の教員をしていた頃の事です。指導の中で指導がうまくいかず悩んだ時期がありました。しかし、他者の助言を通して解決が与えられました。私は、その目が神さまから離れ、自分の力で問題を解決しようとしていました。しかし、神さまは一切をその主権をもって導いてくださいます。私の問題は、指導がうまくいかないことではなく、神の主権を信じる信仰がなかったことだったのです。神さまに立ち返ったとき、心に平安が戻ってきました。「この方法でダメなら次の方法、次の方法でダメなら別の方法を工夫し続ければ大丈夫だ。たとえ最後まで思うようにに指導できなくても大丈夫だ。ここに神さまがおられるのだから。」このような気づきが与えられたことは感謝でした。決して良い結果が得られたとは思えませんが、私は最後まで迷わず指導し続けることができました。

5 神の国と神の義を求める

イエスさまは「まず神の国とその義を求めなさい」と命じました。これは、神の支配を第一に求めること、キリストを一番の宝とすることです。そうすれば、他のすべてのものは「加えて」与えられると約束されています。私たちの心配の多くは、神ではなく生活を第一にしてしまうところから始まります。しかし、神の国を第一にする者には、生活に必要なものが神から与えられます。

6 おわりに

私たちに問われるのは「今、神に揺るぎない信頼を置いているか」ということです。信仰が薄い者であっても、神のもとに立ち返るなら、再び主の御手の中で生きることができます。神は私たちを価値ある者と認め、すべてを支配して導かれるお方です。だからこそ、私たちは今日も、キリストという変わることのない宝に心を向け、神の国とその義を第一に求めて生きていくのです。

(2025年7月27日 石原 俊一 師)

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