自分の秤を捨てる信仰(マタイの福音書7章1~5節)

1 さばきとは何か

「さばく」とはギリシャ語で「κρίνω(クリノー)」=判断する、評価するという意味です。適切な判断は必要ですが、イエスが否定しているのは、批判的な評価です。具体的には、自分の正しさを確信する ②自分の秤で相手を否定的に見る ③相手に対する愛を失う という姿として現れます。

2 さばく者がさばかれる理由

イエスさまは、「自分がさばくそのさばきでさばかれる」と警告します(7:2)。それは、さばく私たちは、私たち自身が神さまに対して大きな負債を持ちながらもイエスさまの十字架によって赦されている存在だからです。私たちに、人をさばく資格はありません。本来、人をさばくのは神のみです。それなのに、他者をさばく者は、神のあわれみの支配を拒絶した者です。さばく者は、自らさばかれる場に出しまうのです。しかし、私たちも①自分を正しいとし、②自分の秤によって相手の問題に注目するという経験がないでしょうか。そのとき、③心がイライラし、「相手が変わらなければ…」という思いがあるとしたら、それは、相手への愛やあわれみを失っている証拠です。

3 自分の秤で量る危うさ

イエスは「自分の秤で量られる」とも言われます(7:2b)。私たちは人生をよりよく生きるために、経験から自分なりの「秤(基準)」を持ちます。「時間を守る」「挨拶をする」なども秤です。これ自体は悪くありません。しかし、それを他者に当てはめるとき、以下の3つの問題が生じます。① 自分の秤を正しいとして絶対視する。② 他者をその秤で否定的に評価する。③ 相手への愛より自愛やあわれみを失い、事情への配慮がなくなる。つまり、相手をさばいてしまうのです。 秤が硬く、強く、大きなものになると、相手の小さな「ちり」に目が行き、自分の目の「梁」に気づけなくなります。

4 自分の目から梁を取り除け

イエスはさま、「まず自分の目から梁を取り除け」と命じます(7:5)。梁とは、自分が絶対視する秤のことです。それは他人の欠点を正しく見ようとする目を曇らせ、愛を失わせます。自分の秤に従うことは、神の視点を失うことに他なりません。

初代教会でも、異邦人信者とユダヤ人信者の間で「何を食べるか」をめぐるさばきがありました。異邦人は「何でも食べてよい」と信じていましたが、律法に従うユダヤ人は豚を避け、野菜しか食べない者もいました。異邦人は自分の信仰の自由を絶対視し、ユダヤ人信者を「信仰が弱い」と見下しました。しかし、パウロは言います。「食べる人は食べない人を見下してはいけない。神がその人を受け入れてくださったのです」(ローマ14:3)。また、「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか」(14:4)とも語ります。相手の信仰は神の御手にあり、神が立たせるのです。自分の正しさを振りかざし、神が愛しておられる人をさばくことは、自分を神の座に置くことであり、重大な過ちです。

5 目の梁をとると人が見える

自分の目の梁に気づき、秤を捨てるとは、自らの正しさや傲慢を悔い改め、神の愛の支配へと戻ることです。目から梁が取り除かれるとはっきりと見えるようになります。自分は赦された罪人であること。ただ、イエスさまの愛とあわれみによって生かされている者であること。自分がさばいていた相手にはその人生の中で歩んできたどうしようもない事情があること。そして、その人もまた、神さまの愛とあわれみの中で赦された罪人であることを。

6 終わりに

イエスさまは私たちに、「さばいてはいけません」と警告されました。その主ご自身が、十字架でさばかれ、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。愛の秤で人を見てくださったイエスは、さばく私たちをも赦し、愛とあわれみの支配に戻してくださいます。

あなたの秤は何でしょうか。その堅く強く大きな「梁」に気づき、悔い改めて、祈りましょう。「神さま、自分の中にさばき心があります。この秤を捨てさせてください」と。神さまは、あなたをさばきの座から降ろし、他者を理解し愛する者へと変えてくださいます。

(2025年8月3日 石原 俊一 師)

 

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