全能の神-使徒信条講解③-(創世記17:1~8)
1 歴史にあらわされた全能の神
神さまは,歴史の中にご自分が全能の神であることをお示しになりました。
(1) 出エジプトの神
イスラエルの人々は、エジプトの奴隷でした。しかし、神は、その奴隷の民を選び、エジプトから救出し、約束の地に導かれました。エジプトでは、十の災いをもってエジプトを打ち、紅海を二つに分けて、イスラエルを救われました。荒野の旅では、60万を超える人々が、天から降るマナを食べ、火の柱雲の柱に導かれて行軍しました。それは、全能の神だけがなしうる奇跡でした。イスラエルの人々のアイデンティティは、この全能の神に由来するのです。
(2) キリスト教会の神
キリスト教会も同様です。教会のアイデンティティは、イエス様の十字架の死と復活です。あの弱く臆病で、イエス様の語る言葉の十分の一も理解することができなかった愚かな弟子たちが、イエス様の福音に命を懸けることができた秘訣は何だったのでしょうか。イエス様の復活です。主の復活を目撃して、弟子たちは変わりました。そしてキリスト教会が誕生したのです。旧新約聖書共に、この全能の神が、その中心におられるのです。
2 神の全能と、人間の無能
コインの両面のように、神の全能を理解するためには、人間の無能を思い知ることが必要です。創世記の中に、人間の無能と、神の全能を体験したアブラハムという人物が登場します。神様がアブラハムに御自分を現わされたのは、彼が99歳の時でした。アブラハムの心は、常識と経験とに縛られ、もはや、全能の神を信じるというような心は、彼には残されていませんでした。しかし,神様は、アブラハムに、「わたしは全能の神である。」と、御自分をお示しになります。神を信じると言いつつも、信仰の父と呼ばれたアブラハムでさえ、このような葛藤を心に持っていたのです。私たち人間は、神様を信じるということにおいても、実は、信じる力を失っているほど神様から遠く離れているのです。この私たちの無能力を悟ることなしに、全能の神様を信じることはできません。
3 無力の告白
私たちが、自分の中には、もう何も残されていない。もし、可能性があるとするなら、全能の神様が立ち上がってそのみわざをなしてくださる以外に、方法がない。そこまで、追い詰められ、自分の無力を味わうとき、実は、そこから、神様の大いなる御業が始まるのです。神様は、アブラハムが99歳になるまで、待っておられました。アブラハムにも、サラにも、一切の可能性が失われて、絶望の淵に立たせられた時、神様はアブラハムとサラに近づいてくださいました。神様は、自分はもうだめ、こんなに罪深くて、情けない、もう無理と無力を率直に認めるまで、なかなか、私たちに近づかれません。私たちが自分の無力を認めて神様の前にへりくだり、神様を仰ぐまで、その全能のお姿を私たちの前には現わしてくださいません。「全能の神に自分の無能を認めて神さまにすがっていく信仰」をもって歩んでいくとき,そこに全能の神さまの踊るべき働きが始まるのです。
(2021年6月20日 木田惠嗣 師)