いのちの水をいただくために(ヨハネの福音書4章15節~26節)

1 いのちの水をいただくために1~自分の罪を認めること

イエスさまの「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(16節)という問いは,サマリヤの女にとって,一番ふれてほしくないことだったかもしれません。それなのに,なぜ,イエスさまは,夫のことを話されたのでしょうか。それは,いのちの水を得るために一番大切なことは,サマリヤの女が自分の罪と向き合い悔い改めることだからです。
サマリヤの女の罪は,自分のさみしさ,むなしさ,満足を満たしてくれる男性を求めた続けたことです。真実に神さまに向かい,神さまに求め,神さまからいただくのではなく,人に求め続けたことです。サマリヤの女がいのちの水を得るためには,「私が今まで乾いたむなしい歩みしていたのは,イエスさまでは,なく人に求めていたからだ。」とこれまでの自分を認めることが必要です。イエスさまは,「サマリヤの女よ。あなたが,いのちの水をえるためには,これまで人に向かい人に求めてきた自分自身を認め,私の方に向きを変えることだよ」というイエスさまの心やさしいメッセージだったのです。

2 いのちの水をいただくために2~自分の思いをイエスさまにぶつけること

サマリヤの女は,そこで,自分こととは,直接関係のない,「真の礼拝する場所」という般的な問題を提示しました。自分自身の罪とは関係のない問題をもちだすのです。それは,自分の罪と向き合うことを恐れたからです。サマリヤの女は,自分の罪を認めることに恐怖を感じました。自分の罪を認め,これまで自分を支えてきたものを捨てることに不安でいっぱいになったからです。しかし,サマリヤの女に自分の思いをイエスさまにぶつけたので,イエスさまは,サマリヤの女をいのちの水へ導きました。
私達は,イエスさまには自分のそのままの姿で出て行くことが赦されています。かばうなら,かばうそのままで自分の思いをイエスさまにぶつけていいのです。反抗するなら反抗するまま,悩んで悩んでどうしようもないなた悩んだままでイエスさまに向かって自分の思いをぶつけることができます。イエスさまは,私達の側がたとえどうであっても,私達を導いてくださいます。それは,「かばい」であっても同じです。イエスさまを信頼して,安心して,自分の思いをイエスさまにぶつけていきたいと思います。その先にいのちの水が待っています。

3 いのちの水をいただくために3~救い主イエスさまと出会うこと

サマリヤの女の「私はメシアを知っています。」に対して,イエスさまが私がそれです。と答えました。ここで,サマリヤの女は,はじめて,目の前の人が救い主であるイエスさまと出会いました。真実にイエスさまと出会い,イエスさまを心から信じたら,もう自分をかばう必要がありません。自分の罪を認めることができます。イエスさまに向きを変えることができます。イエスこそ,私達が向きを変えたときいのちの水を与えてくださる方だかたです。
イエスさまはサマリヤの女に「女の人よ、わたしを信じなさい。」 言われました。 いのちの水をいただくために,なによりも大切なことは,真実にイエスさまに出会うことです。イエスさまを知り,イエスさまこそ救い主と信じることです。真実にイエスさまが救い主を信じ受け入れることができたとき,私達は,イエスさま以外の物を求めていた自分の罪を認めることができます。そして,イエスさまからいのちの水をいただくことができます。いつまでもイエスさまの平安と感謝と喜びを愛が溢れ出るような歩みをすることができるようになるのです。

(2021年7月4日 石原 俊一 兄)

 

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