使徒信条講解⑦キリストの受肉降誕(マタイの福音書1章18節~25節)

1 「処女マリアより生まれ」

ルカの福音書,マタイの福音書のイエス様誕生の記録は,結婚前のマリヤが御使いガブリエルから“受胎告知”を受ける衝撃的な出来事から始まります。やがてその御告げのとおり,一人の男の子がベツレヘムの洞窟で産声をあげました。“処女降誕”です。神がまことの人となられたという事は,聖霊のお働きによる以外には決してあり得ない神の奇跡です。大切なことはその出来事の持つ意味です。

しかし,この出来事を受け入れがたいという人々のために,クランフィールドという学者の見解をご紹介しておきましょう。「処女降誕の歴史性を論証することは,明らかに不可能である。しかし,それを反証することもまたできないことは同様に事実なのである。そして,実際には,処女降誕の歴史性を支持する有力な論拠が存在する。」と語り,「処女降誕の歴史性に反対する議論は,これまでしばしば考えられてきたほどに説得力のあるものではない。」と結論付けます。そして,処女降誕に反対する立場の議論を6つ取り上げ,ひとつひとつ論駁しています。① 処女降誕は,マルコも,ヨハネも知っていたと思われる。(マルコ6:3「この人は大工ではないか。マリアの子で,ヤコブ,ユダ,ヨセ,シモンの兄ではないか。」,ヨハネ8:41「私たちは淫らな行いによって生まれた者ではありません。」)。また,パウロもローマ1:3,ガラテヤ4:4,ピリピ2:7処女降誕を知っていたと思われる。

② マタイ,ルカのイエスの系図は,処女降誕の反証であると語られるが,法的な親子関係の証明にすぎない。

③ イエスの家族には,イエスが特別な存在であるという態度が欠如していたことは,処女降誕の反証であるという議論には,取立てて語るべきことではなかったからである。

④ イザヤ7:14のインマヌエル預言の誤訳からという論説に対して,アルマーというヘブル語に,処女を意味するギリシャ語が当てられたことは事実だし,ヘブル語アルマーは,旧約聖書において,処女以外の女性を指す言葉としては使われていないという事実もある。
⑤ 異教世界の処女降誕に類似する物語と,聖書の物語では,明確な相違がある。

⑥ 多くの人の心には,奇跡は起こらないという前提が存在する。それ故,処女降誕があり得ないということは,創造者なる神への信仰や,不可知論の立場とも矛盾する。

2 処女降誕とは何か

① 神が人となられたということが,処女降誕の第一の意味です。主イエスは,永遠の神の御子であり,まことの永遠の神であり続けるお方です。神ですから,創造されたこの世界よりも偉大なお方です。イエス様は,神であるのを止めたことは一度もありません。そのイエスが,処女マリヤの胎に宿ったのです。

② 神の御子が,「まことの人」となられたということです。ダビデの子孫として,正真正銘の人間となられました。罪を別にして,あらゆる点で,兄弟たちと等しくなられました。完全な神でありながら,完全な人間であられました。これは,私たちの理解を遥かに越えていますが,聖書はそう語ります。

③ 聖霊のお働きによってそのようになられた。聖霊は,三位一体の神のおひとりですが,その聖霊によって,神であるお方が,処女マリヤの胎に宿りました。「聖霊の働き」による「キリストの聖なる受胎」は「御自身の無罪性と完全なきよさ」の証しですが,それらもまた罪の内に受胎する私たち人間の罪(問7)を「永遠の神の御子」である方が「神の御顔の前で覆ってくださる」ためなのでした。

3 ゼーレン・キルケゴール「哲学的断片」より

最後に;ゼーレン・キルケゴール「哲学的断片」の中に出て来る「王様が貧しい娘を愛したとしたら」というお話を紹介しましょう。ある国の王様が、地方の貧しい村を通った折、馬車の中から、畑で働く、ひとりの身なりの貧しい農家の娘を見染めました。その輝く美しさに心を奪われてしまったのです。でも、王は悩みました。どうしたら、あの娘の心を掴むことができるでしょう。王の権威や、金の力で彼女を妻に迎えるのでは、その心を得たことにはなりません。本当に彼女の心を得るにはどうしたらよいのでしょう。もし、方法があるとしたら、王が、自分の権力や富を捨てて、一介の農夫になって、その貧しい村に住み、その村の貧しさ、厳しい労働を共にする中で、この娘に近づき、友となることです。そうすれば、彼女が自分を愛してくれる日が来るでしょう。同じように、天の神は、私たちのところに、人として来てくださったのです。これが、クリスマスの恵み、キリストの受肉降誕の神秘です。

(2021年12月5日 木田惠嗣 師)

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