「心の貧しい者」の幸い(マタイの福音書5章1節~3節)

1 「心の貧しい者」とは

「心の貧しい者」は,自分の心に価値あるものが何もないことを認めている人です。自分の無力,自分の罪,滅びに至るしか無い自分が分かっている人です。
人との比較ではありません。だから劣等感とは違います。「なりたい自分」との比較ではありません。だから自己嫌悪とは違います。弟子たちはイエスさまの前に立っていました。無限の力をお持ちのイエスさまの前では0,何もないという弟子たちの実態を,イエスさまは,ご覧になったのだと思います。
「心の貧しい者」は,神さまに頼らざるを得ません。神さまによりすがるしかありません。自分には何もないから。自分からはよきものが出てこないから。ただ,「神さま哀れんでください。」「神さま助けてください。」「神さま導いてください。」と祈り,神さまにお委ねし,生きていくことしかできない者が「心の貧しい者」なのです。

2 「心の貧しい者」がなぜ幸いか

神さまは,そのような人々を幸いですと言ってくださいます。そして,心の貧しい者が幸いな理由をこう語ってくださいます。
「天の御国はその人たちのものだからです。」
天の御国とは神様がご支配される世界のことです。空っぽの心,自分の思い,こだわりを捨てた心をイエス様が御支配されます。自分の思い,こだわりを捨てた心にイエス様が生きてくださいます。
私たちにとって一番幸いなことは,神の御国で生きること。イエス様の御支配の中で生きることです。イエス様の愛と平安に満ちた世界が,その人の中に実現します。それはなんと幸いなことでしょう。だから,イエス様は,
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
と語られるのです。

3 「心の貧しい人」として生きる

私たちは,自分の思い,自分の計画,自信と野心を捨てきれない,へりくだることのできない者です。
しかし, イエスさまは,そのような私たちの罪の身代わりとして十字架にかかられました。私たちを救うために十字架の上で死なれました。私たちを愛して愛し抜かれたイエスさま。イエスさまの十字架の愛によって,私たちは「心の貧しい者」という自分の本当の姿を認めることができます。イエスさまの十字架の愛によって,私たちは,イエスさまの愛に寄りすがり「心の貧しい者」として生きることができるようになります。イエスさまの十字架の愛によって,私たちは,「幸いな者」として,神さまの愛の世界を生きることができるようになるのです。
「心の貧しい者は幸いです。」イエスさまの言葉を感謝して受け入れましょう。「イエスさま。私は貧しい者です。この貧しい者を御支配くださりありがとうございます。「幸い」と言ってくださりありがとうござます。」と感謝してイエス様を受け入れましょう。すると,「天の御国はその人たちのものだからです。」とあるように,私たちも,イエスさまの愛の中,イエスさまの恵みと平安の中を生きることができます。

(2020年6月14日 石原 俊一 兄)

 

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