「義に飢え渇く者」の幸い(マタイの福音書5章6節)

1 義に飢え渇く者とは

「義に飢え渇く者」とは,イエスさまから離れてしまったことに苦しみ,飢え渇く者のように,イエスさまに戻っていこうとする人のことです。
この世で,本当に正しい方はイエスさましかいません。イエスさまは義そのものです。私たちは,イエスさまを信じ,義そのものでおられるイエスさまと一つとなるとき,イエス様と正しい関係にあるとき,私たちも「義」とされ,正しく歩むことができます。
しかし,私たちが、イエスさまから離れることは、私たちがイエスさまの義をいただくことを拒否するということです。その者は,これまでの平安がなくなります。そのとき,義に飢え渇く人は,飢え渇く者のように,イエスさまに戻っていこうとします。

2 義に飢え渇く人の歩みとは

私たちは,聖なるイエスさまにふれるとき,自分の罪があらわにされます。それは,丁度,暗い部屋に光が差し込んだときの様子に例えることができます。暗い部屋に光が差し込むと,今まで見えなかった埃が現れます。私たちの罪もイエスさまの光に照らされると,もともと持っていた,でも,気づかなかった罪がはっきりと見えてきます。イエスさまは,私たちを愛する故に,私の中の闇,不信仰,イエスさまから離れてしまっている部分を露わにされるのです。
義に飢え渇く者の歩みとは,日々自分の罪が示され,飢え渇く者のようにように,イエスさまに戻っていこうとする歩みです。一歩歩めば、肉の思いが出てくる自分に気づくのが私たちの日常です。歩みの中の一瞬一瞬で、イエスさまから離れてしまったことを告白し,一瞬一瞬でイエスさまに戻っていくのです。

3 義に飢え渇く人の歩みはイエスさまの十字架故

イエスさまに祈るとき,私たちは,イエスさまのみもとに戻ることができます。それは,イエスさまが私の罪のために十字架にかかってくださったからです。イエスさまは、私の罪の身代わりとして十字架にかかられました。それだけではなく,救われてもなお、肉の思いにとらわれる私たちのために、すぐにイエスさまから離れてしまう私たちのためにも、十字架の上で死んでくださったからです。だから、私は、日々,イエスさまの元に戻ります。私を愛して、私を許して、私を満ちたらせて、私を祝福してくださるイエスさまのもとに帰ります。それが、義に飢え乾く者の歩みです。

4 義に飢え渇く人は満ち足りる

義に飢え渇く人は満ち足ります。イエスさまの元に戻るとき、平安が与えられます。イエスさまは義のお方であり、イエスさまのうちに一切の恵と平安と喜びがあるからでし。私たちは悔い改めると,「もう十分」という平安がやってきます。イエスさまの愛と恵みと平安に満たされます。

5 私たちの誤解

義に飢え渇く人の歩みは誤解されやすいので気をつけましょう。
1つ目の誤解は、神さまや人に認められるために,自分の力で正しい行いをしようと頑張ることです。2つ目の誤りは、「このことは罪だろうか」「このことは罪ではない」と自分や他人の行為そのものを義か不義かと判断し、裁くことです。3つめの誤解は,自分の罪の姿が示されたとき,その自分の罪を隠したり,自分で対処したりしようとすることです。

6 まとめ

「『不信仰な私をあわれんで下さい』、この祈りをもって主のみ前に出て行き、すべてをそのままお任せしていく」ことが義に受け渇く人の歩み,イエスさまが「幸い」といってくださる歩みでし。そして,「義に飢え渇く者」は満ち足ります。神様が満ちたらせてくださいます。

(2020年8月16日 石原 俊一 兄)

 

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