「心のきよい者」の幸い(マタイの福音書5章8節)

1 「心のきよい者」とはどのような人か

 「心がきよい」の「きよい」とは言語は,「単一」という意味です。「単一」とは,「それ一つであること。他に混じり物がないこと。」です。ですから,「心がきよい者」とは,「心がそれ一つであり,混じり物がない者」という意味となります。
「心がきよい者」の反対「心がきよくない者」は,自分の心に「心の闇」をつくる人です。「心のきよくない者」は,神様の光を受けない部分をつくります。ここだけは,神様に見せたくない,ここだけは,自分の中で触らないで置きたい。そのような者は,心が単一ではありません。
心がきよい者,心の単一な者は神様の御支配の中にいます。100%神様の光を受け,陰がない人,それが心のきよい人です。

2 「心のきよい者」になるにはどうすればよいのか。

 イエスさまの光を100%受けると,その人の罪は露わにされます。それは,とても感謝なことです。でも,それはとてもつらいことです。人の罪は大きく深いからです。
自分の罪が露わになったとき,人はどうするでしょう。2通りの道があります。
一つは,自分の罪を見ないことにすることです。自分の罪を無意識の奥にしまい込みます。無かったことにします。そこで,人は,自分で自分の中に闇をつくります。自分の罪を神さまの目から隠そうとするのです。
もう一つあります。それは,自分の罪のあるがままで,神さまの前に出て,神さまに自分の罪のすべてを告白することです。
私たちは,肉の思いが心の中をぐるぐると回ります。このとき,肉の思いが心の中を回ることがことが問題ではありません。肉の思いが心に訪れたそのとき,自分で処理しようとして,心の闇を作ってしまうことが問題です。イエスの愛は私たちの思いを遙かに超えています。イエスさまは,自分で心の闇を作ってしまう私のために十字架に架かって死んで下さったのですから。心の闇を作ってしまう私をすべてご存じの上で愛して下さっているのですから。ですから,この肉の思いをを神さまに祈っていけば,必ず神さまがきよめてくださること,必ず,神さまが恵みと祝福を与えてくださることを信じることです。肉の思いを絶えず光の中に出していく者,絶えず神さまに祈っていく者。そのような者が,「心のきよい人」 とされるのです。

3  「その人たちは神を見る」とはどういうことか

 それでは,心のきよい者が神さまを見るとはどういうことでしょうか。
実は,神さまは,いつでもどこでも神さまの姿を見せてくださっています。神さまは隠れたり見えなくなったりはしないのです。しかし,罪を犯し,心に闇を作った人間の方が神さまから目をそらします。だから,神さまが見えないのです。
心のきよい者の心には闇がありません。人知を遙かに超えたイエスさまの愛を信じているからです。自分の罪を一切神さまに差し出し,神さまにみられることを喜びとします。神さまがご自分を見せないのではありません。心に闇を作った人の方がが神さまをみようとしないのです。だから,イエスさまは,私たちに,「心のきよい者は神さまを見る」と語られるのです。
今は,神さまがはっきりと目に映るということはないかもしれません。しかし,神さまの御支配の中を生きる者。神さまの愛と,恵みと平安の中を生きる者は,私たちの歩みの中で働かれる神さまを見ることができます。
やがて,新し天と地で,私たちは,御顔を仰ぎ見るそのときが来ます。「もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。」(黙示録22章3節~4節)
そのときを楽しみにしたいと思います。そのときまで,私たちは,ただ,イエスさまに自分のありのままの姿を告白し心のきよい者 として歩んでいくことを求めていきたいと思います。

(2020年10月4日 石原 俊一 兄)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です