「あわれみ深い者」の幸い(マタイの福音書5章7節)

1 「あわれみ深い」神さま

神さまのあわれみとは,罪ある者を捨てないで,待ってくださり,赦してくださり,永遠の命を与えてくださる ことです。神さまのあわれみは,イエスさまの十字架によって具体的に示されました。自分ではどうすることのできない罪人,自ら不幸な道に外れていく罪人。その罪人を捨てるのではなく,赦し,永遠の命に導くために,イエスさまの十字架に架かられました。
神さまのあわれみの深さは,私たちの罪がいかに重く,深刻であるかということを実感するより深く理解できます。聖書を生きる人々は,不信仰な姿を現し続けました。罪を犯し続けました。ユダヤ人の歴史は罪の歴史でした。私たちの一生も罪を重ねてきた歩み,不信仰の歩みでし。神さまのあわれみは,このようなどうしようもない不信仰なもの,罪あるものに注がれました。

2 「あわれみ深い者」とは

「あわれみ深い者」とは,他人がどんなに罪深い存在でもその人と共に歩み,その人が神さまのあわれみをいただけるように取りなす人です。「あわれみ深い人」は,神さまが自分にかけてくだった深いあわれみを実感しているから,他人がどんなに罪深くても,神さまが,自分と同じように,捨てないで待ってくださいます。そして,赦してくださり永遠の命を与えてくださることとを信じることができるのです。
イエスさまは,罪深い自分に対して示される赦しとあわれみを感謝していただいている私たちのことを「あわれみ深い人」と呼んでくださいます。イエスさまを信じる私たちは,イエスさまの愛と恵みと平安とあわれみの世界を生きています。すると,その人は,その人が気づかないくらい自然にあわれみ深い行動ができるように変えられていきます。

3 「その人たちはあわれみを受ける」とはどういうことか

神さまは,すべての人にあわれみを与えようとしてくださっています。しかし,イエスさまは,あわれみを受けるのは,あわれみ深い者だと語られます。それは,イエスさまが与えようとするあわれみを自ら拒否する人がいるからです。それは,人を裁く人,人の罪を赦すことが出来ない人です。自分が赦されている罪人であることを忘れ,人を裁く人は,他の人の罪をみて赦せなくなったその瞬間に,イエスさまの愛と恵みと平安とあわれみの世界を飛び出してしまいます。その人にはあわれみはありません。ですから,イエスさまのあわれみを受けることができるのは,イエスさまのあわれみの世界に留まる者,あわれみ深い人だけです。

4 それでもあわれんでくださる神さま

私は,他人の罪が大きく見えてしまうことがあります。他人が赦せなくなることがあります。そうなると,私はもうあわれみを受けることができないのでしょうか。そうではありません。「それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられ、彼らをお捨てになりませんでした。」(ネヘミヤ記9章17節)神さまは,それでもあわれんでくださいます。人の罪赦すことのできない私が神さまのみもとに帰ってくるのを待っていてくださいます。そのような私をあわれんで,イエスさまは十字架に架かられたのです。だから,私たちの歩みは,「イエスさまあわれんでください」と祈り続ける歩みです。 神さまは,そんな私たちを「あわれみ深い人」になるように,あわれみを受けるようにへの導いてくださいます。

(2020年8月30日 石原 俊一 兄)

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