「悲しむ者」の幸い(マタイの福音書5章4節)
1 「幸い」といわれる「悲しむ者」とは
「幸い」といわれる悲しむ者とは,イエスさまの前で悲しむ者のことです。イエスさまみもとに行って泣ける人。悲しいままでイエスさまの前に立てる人,今の悲しみをイエスさまの前に持って行く人,イエスさまの前で泣ける人のことです。
ユダは,イエスさまの前で泣かずに自分で始末してしまいました。しかし,ペテロは,イエスさまを裏切ったとき,イエスさまの前で激しく泣きました。私たちはペテロを模範としたいです。「イエスさま,私は悲しいです。」と自分の中であふれ出てくる感情をありのまま祈っていく,イエスさまの前で泣いていく,それが,『悲しむ人』の歩みです。
2 「悲しむ者」への導き
(1)悲しみのもとである的外れを示される
悲しみをもって,イエスさまの前に出ていくと,イエスさまは,その人の悲しみのもとである的外れ,罪を示してくださいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ人への手紙7章24節)イエスさまは,自分の罪を悲しむ者に導かれます。
(2)十字架の愛によって真実の慰めを与える。
そして,イエスさまの十字架をもってその解決の道を示されます。ここに,本当の平安,本当の慰めがあります。イエスさまは,私たちの罪と罪ゆえの悲しみの一切を背負って十字架にかかられました。本当は,死ぬべき私たちに変わって,十字架に架かってくださいました。十字架の上で死なれたことで,イエスさまは罪の問題を解決し,本当の慰めを与えてくださいました。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ人への手紙7章25節)
(3)天の御国ですばらしい慰めがあたえられる
「悲しむ者」はやがて来る天の御国で慰めが与えられるように導かれます。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」 (黙示録21章4節) 神様が与えてくださる天の御国,神様の御支配の世界は悲しみのない世界。苦しみのない世界,死のない世界。愛と恵みと平安の世界です。神さまの前で悲しむ者には,この神様の御支配の世界が用意されています。
3 イエスさまの前で思いっきり泣く者に
私たちは,その歩みの中で,自分の悲しみを自分の中に留めてしまうことがなんと多いことでしょう。私たちは,イエスさまの前に,思いっきり泣きたいです。泣ける人間になりたいです。すると,「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」というイエスさまの言葉が,「アーメン。真実です。」と言えるようになります。イエスさまが十字架の愛をもって私たちを導いてくださるからです。
(2020年7月5日 石原 俊一 兄)